今では米菓やスナック、いか天など、さまざまなカテゴリーで定番となりつつある「紅生姜味」。その草分けとなったのが、アイデアパッケージ(大阪府池田市)が2014年に発売した、「大阪紅ショウガ天 柿ノ種揚」だ。西尾社長が目指したのは、紅生姜味の菓子ではなく、「新しい大阪土産」を生み出すことだった。大阪の食文化に着目し、紅生姜天を菓子として表現するという発想はどのように生まれ、いかにして全国へ広がったのか。西尾優志社長にその舞台裏を聞いた。

西尾社長:紅生姜味の商品を最初から作ろうと思っていたわけではない。出発点は、「新しい大阪土産を作ること」だった。
発売前の2013年頃の大阪土産は、たこ焼きやお好み焼き、串カツなど粉ものを題材にした商品が圧倒的に多かった。ただ、味にすると結局はどれもソース味になる。企画会社として同じような商品を作っても意味がない。大阪らしさを表現しながら、まだ誰もやっていないものを探したかった。
京都には抹茶という地域を象徴する素材がある。一方で、大阪全体を象徴し、土産のテーマになるような素材は意外に少ない。
考え続けた末にたどり着いたのが「紅生姜天」だった。大阪で昔から親しまれてきたこの食文化を、菓子という形で土産にできないか。私が作りたかったのは「紅生姜味」ではない。「大阪らしい土産」である。
もし東京で牛丼の横に添えられた紅生姜だけを見ていたら、この発想にはたどり着かなかったかもしれない。大阪で暮らしていたからこそ、紅生姜天という食文化が身近にあり、紅生姜を一つのフレーバーとして捉えることができた。
紅生姜天をテーマにするなら、柿の種も焼くのではなく油で揚げようと決めた。揚げ物をモチーフにしているのに、焼いた菓子では説得力がないと思ったからだ。
紅生姜と言えば真っ赤な色である。この「真っ赤」の再現に徹底してこだわった。パッケージだけ赤くても、中身が薄いピンクでは期待を裏切ってしまう。袋を開けた瞬間、「本当に紅生姜だ」と思ってもらう。その驚きまで含めて商品にしようと考えた。

さらに、大阪の串カツ屋に漂うレトロな雰囲気や人情味、B級グルメらしい親しみやすさも込めたかった。デザインも赤を基調に、文字や配色、売り場での見え方まで大阪らしさを意識した。
手に取った瞬間から袋を開け、中身を見て口に運ぶまで、「大阪らしい」「面白い」と感じてほしかった。一袋の菓子を通して、大阪の空気や食文化まで持ち帰ってもらえるような商品を目指した。
しかし、市場の反応は想像以上に厳しかった。当時は紅生姜味の菓子そのものがほとんど存在せず、高速道路のサービスエリアや土産店へ営業に行っても、「こんなもの誰が食べるのか」「いらない」と断られることばかりだった。「前例がない」というだけで、ほとんど相手にされなかった。
一回の製造で約2千袋作っても売り切れず、人に配って処分することもあった。年間約5千袋製造しても、売れたのは半分以下だった。
それでも販売をやめようとは思わなかった。大阪には新しい土産が必要だという思いがあったし、この企画は絶対に面白いという自信もあった。どこかで必ず評価されるという感覚だけは最後まで持ち続けていた。
約2年半、赤字に近い状態でも販売を続け、テレビに取り上げられるまでの累計製造数は約1万袋。しかし、その多くが売れ残っていた。
転機は2017年だった。「マツコの知らない世界」で、「大阪紅ショウガ天 柿ノ種揚」を紹介してもらうことになった。放送前は、どのような反応になるのか正直不安もあった。だが、その頃には失うものは何もなかった。売れない状態が続いていたから、出ないより出た方がいい。そう考えて出演をお願いした。
番組でマツコさんが一口食べ、「これ、おいしいわね」と言ってくれた。その瞬間から景色は一変した。オンラインショップには注文が殺到し、FAXも鳴りやまず、1年間で約100万袋を販売。それまで売れなかった商品が、一気に全国へ広がった。
その後は菓子メーカーや食品メーカーから紅生姜味の商品が相次いで発売され、スナック菓子や米菓、いか天など、さまざまなカテゴリーへ広がった。当社でも、ポテトチップスや鶏皮揚げ、ソースなど商品群を拡充した。自分たちが市場を切り開く一つのきっかけになれたのなら、これほどうれしいことはない。今振り返れば、あの時販売をやめていたら、紅生姜味という市場そのものは生まれていなかったのかもしれない。

【後編予告】
新しい大阪土産として生まれた「紅ショウガ天 柿ノ種揚」は、その後、紅生姜味という市場を切り開いていく。しかし、西尾社長が語る紅生姜の魅力は、それだけでは終わらない。後編では、食品素材としての紅生姜が持つ可能性と、その市場の未来について、西尾社長の考えに迫る。

