65年前のその日、ニューヨークは小雨の日曜日ということもあり客入りは芳しくなかったようだ。マンハッタンの名門ジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」に、ピアノのビル・エヴァンス・トリオが出演していた。
▼観客は会話や食事に夢中なのか、食器やグラスの音、笑い声も響く。合間に聞こえる拍手はまばら。十数年前に筆者がこのクラブを訪れたときの盛況ぶりと比べても、熱心に音楽を楽しんでいる雰囲気は薄い。
▼2枚のアルバムとして世に出たその録音は後年、ジャズファンなら誰もが聴くピアノトリオの金字塔として音楽史に名を刻むことになる。エヴァンスの盟友であるベース奏者スコット・ラファロは、出演の11日後に交通事故で急逝。これが遺作となった。
▼あの日、気もそぞろだった観客たちは歴史的な演奏に立ち会っているとも知らず、何気ない日曜日を過ごしていたに違いない。身構えて臨めば肩透かし、そのくせ知らずにやり過ごす重大局面。思えば、誰だって人生そんなものだろう。そしてそれは人間が歩んできた歴史そのものでもある。



