広島で1886年に創業したチチヤス ヨーグルトと学校ミルク給食の草分け 6頭の乳牛の飼育から始まりヒット商品誕生まで

 広島県廿日市市に本社を置き牛乳・乳製品の製造販売を行うチチヤスは、1886年(明治19年)に広島合資ミルク会社の社名で広瀬村(現在の広島市中区広瀬町)に創業し、6頭の乳牛を飼育して牛乳を販売するところから事業を開始した。

 3月に行われた新商品発表会で、チチヤスの久保貴義取締役マーケティング・商品開発・広島工場管掌が創業からヒット商品「毎朝快調ヨーグルト」誕生までの歴史を紹介した。

 創業時、牛乳に対する認知は皆無だった。
 「江戸時代から明治時代に変わったばかりで認知が全くなかった。栄養価があり病気をされた方が少し飲まれていたという話はあったが、発売当初は全く売れないという状況が続いていた」という。

 転機が訪れたのは、日清戦争が起こった1894年。

 「広島に大本営が移され、明治天皇が広島に来られることになった。当時、広島では浄水路が整備されておらず、水に大変困られたという。その際、お付きの方が牛乳を献上したところご愛飲され、“天皇陛下が飲まれるであれば”ということで、そこから一般市民にどんどん広まっていった」。

 これにより事業の基盤が構築され、1904年、宮島の対岸にある広島県廿日市市大野へ牧場を移設し社名をチチヤスに変更した。
 社名については「父を尊敬することから生まれた名前。二代目の野村清次郎が理念を引き継ぎ、父の野村保の「保」を「ヤス」と音読みして、これに乳と父の「チチ」を組み合わせた」と説明する。

 1917年(大正6年)、日本で初めてヨーグルトを発売した。

 発売時のキャッチコピーは“絹漉豆腐に似て味は林檎酸の様であり又香気はクリームの様であります”。
 酸っぱく高価であったことから販売は苦戦。
 「米1升50銭の時代に、ヨーグルト1瓶19銭で売られていた。高すぎて、日本人の口になかなか合わないということで売れにくい商品であったと聞いている」と述べる。

 1919年、サイドカーで牛乳配達を開始し人々の注目を浴びる。
 1926年(昭和元年)には、栄養不良児における牛乳補給統計研究に参加。「短期の試験ではあったが、学校ミルク給食のはしりともいうべき画期的な試みであった」と語る。

 その後、太平洋戦争による物資不足で販売休止を余儀なくされる。
 1947年にヨーグルトの研究を再開し、1954年には「チチヤスヨーグルト」として再発売した。
 これは「発酵臭が無くいやみのない酸味を出す乳酸菌を独自で発見し、さらに、まろやかで上品な食感ということで、今のチチヤスの基礎となるヨーグルト」となる。

 1966年、厚生省(現・厚生労働省)から使用許可を得て国内初のヨーグルト用プラスチック容器を販売開始した。

 以降、1975年の関東進出を皮切りに躍進の時代に突入する。
 1997年には、当時のヨーロッパの考え方を取り入れ、2種類のビフィズス菌に食物繊維を加えた「毎朝快腸ヨーグルト」(現・毎朝快調ヨーグルト)を販売開始し、雑誌やTVの影響で消費者のヨーグルトと腸内細菌への関心が高まったことを追い風に「チチヤスヨーグルト」シリーズを凌ぐヒット商品となった。

 2011年には伊藤園グループ入りし、直近では4月10日に、チチヤスと伊藤園が「毎朝快調」ブランド初の機能性表示食品をそれぞれ新発売した。

 開発での主な役割分担については、チチヤスが乳系・乳酸菌商品に関する技術を伊藤園に提供し、伊藤園は研究インフラやマーケティングのノウハウをチチヤスに提供している。

 営業体制は、前期(4月期)からチチヤスの営業社員を伊藤園に送り込み伊藤園で一括。 
 「販売網をドライ・チルドの双方のいいところを使いながら広げていくという体制のために営業を集約した」。

 チチヤスの今後の目指すべき方向については「単にデザートのヨーグルトを広げていくだけではなくて、機能性を表記できるような原料でお客様の健康を常に考えた商品作りを考えている」と意欲をのぞかせる。