東京・渋谷にラムネ屋を創業
東京・渋谷でラムネを製造・販売していた老舗飲料企業の三田飲料が、業務用の果汁飲料を主軸としたビジネスモデルに転換するなどの発展を遂げ、今年9月、創業100周年の節目を迎える。
取材に応じた三田飲料の三代目・三田大介社長は、代々受け継がれてきた大切な教えについて「製品の安心・安全はもちろんのこと、まずパート、アルバイトを含む全従業員が幸せであること。従業員が幸せでなければお客様も幸せにできない。この教えはこれからも変えるべきでない」と力を込める。
創業者は祖父の三田米蔵(よねぞう)氏。神奈川県厚木市に生まれ、長男ではなかったため家督を継がず東京・上野のラムネ屋に丁稚奉公する。
「当時のそのお店は主従関係がとても厳しく、“独立したら上下分け隔ての無い理想郷をつくりたい”と考えていたという」と述べる。
当時、東京の中心は上野や浅草であった。周囲の薦めもあり独立の地と定めた渋谷は、村から町制に移行したての頃であった(明治42年に渋谷村が町政を実施)。
そうした中、関東大震災が起き、奉公先が壊滅。その翌年の1924年(大正13年)、自らの名をもって三田米蔵商店を創業した。
「お世話になった方々が全員、火災や倒壊に巻き込まれお亡くなりになった事が背中を押すきっかけとなったと聞く。ラムネは大きな設備も必要とせず、材料さえ揃えば作る事が出来た」と説明する。
当時、渋谷にはラムネを製造・販売するお店が4軒あったが、この中で三田米蔵商店だけが生き残った。
創業時から従業員とフラットな関係
第二次世界大戦が本格化し戦時体制下になると台湾からの砂糖輸送が困難となる。1940年(昭和15年)に、砂糖が配給制となったことで、砂糖の調達ができなくなり各社廃業を迫られる中、奇遇にも三田米蔵商店が陸軍の指定飲料工場に選定されたことで、砂糖が卸され事業を継続することができた。
「我が家系は代々、大きな欲がない。祖父の会社がなぜ指定飲料工場に選ばれたのかは今もわからない。ただ当社が生き残れた1つの大きな要因であることには間違いない」と捉えている。
創業当初は小さな商店などにラムネを卸し、その後、渋谷の開発が進むにつれ、卸先は映画館や喫茶店が主流になっていく。
創業時から徹していることが従業員とのフラットな関係。
「祖父は従業員と経営者に上下関係はないと言って、同じ畳の上で従業員と食を共にしていた。この姿勢は父親(二代目)も同じであった。社長は会社の責任者ではあるが、一人ではできないことを従業員の力で成しえていることから同じ立場と捉えていた」。
日本初 紙容器の業務用コンクジュースで飛躍
二代目・三田耕吉氏は、ビジネスモデルをラムネから果汁飲料に転換し現在の三田飲料の礎をつくる。
1962年(昭和37年)、健康食品として無添加純正のりんごジュースの製造を開始。「りんごには、風邪をひいたときに、すりおろして飲まれる滋養強壮のイメージがあり、りんごジュースを皮切りに他のジュースも手掛けていった」という。
1970年(昭和45年)に、三田飲料へと社名を変更。1973年(昭和48年)に再び大きな飛躍を迎える。日本初となる紙容器による業務用コンクジュース(濃縮果汁飲料)を開発したのだ。
「容器をリターナブル瓶から紙に変えたのは、当社にとって一番大きな転機であった。牛乳の紙容器は既に市場にあったが、果汁では当社が本邦初。同じ紙容器でも、中性域の牛乳用とは構造が異なり、シール部分が薄く、最初の頃は漏れることもあった。それでも瓶に戻さなかったのは、相当の覚悟があったのだと思う」と振り返る。
リターナブル瓶は使用後に回収を要することから、商圏は渋谷界隈に限られていた。
ワンウェイの紙容器に変えたことで商圏が一気に拡大。1980年代になると居酒屋ブームの波にも乗り、喫茶店向けの濃縮ジュースに留まらず、レモンサワーなど酎ハイの割材として製品を提案して居酒屋業態の販路を開拓。以下のとおりに設備を増強しながら成長を遂げていく。
――1976年(昭和51年)、業務拡大のため日野工場を建設・移転
――1987年(昭和62年)、アセプティックパック(無菌充填)システム導入
――1988年(昭和63年)、八王子市に新工場を建設・移転
――1990年(平成2年)、八王子第二工場を増設
――1994年(平成6年)、無菌充填ルームとUHT殺菌ラインを増設
――1996年(平成8年)、世界で初めて常温保存可能な100%のイタリアンブラッドオレンジ製造開始
創業100年 三田大介社長「従業員の皆に感謝しかない」
三代目・三田大介社長は1967年、神奈川県茅ケ崎市生まれ。56歳。玉川大学農学部農芸化学科食品製造化学研究室卒業後、1990年に菱食(現・三菱食品)に入社し、3年勤めた後、1993年4月に三田飲料へ入社する。入社してしばらくはもちろん平社員から。先輩社員から学ぶ日々であった。2001年、取締役副社長に就き、2005年から現職。
「父親からはいつも“大きさよりも釣り合いが肝心”と言われており、会社の明るい雰囲気を大切にしていきたい。9月に創業100年を迎えるにあたり従業員の皆に感謝しかない」と語る。
製品開発は「一歩先を見据えて半歩先の製品を出していく」。
多品種小ロット生産の進化にも意欲をのぞかせる。
「大手がやり難いであろう事こそ我が社がやるべき仕事であり、お客様があっと驚き、笑顔になる細やかな製品を創造し、作り続ける事が我が社の使命だと考える。最近では製菓原料に踏み込むなど、少しずつ製品の領域を広げていく」との考えを明らかにする。