“コーヒーをたしなんでいた渋沢栄一 徳川昭武の随員として渡欧 「航西日記」に体験記”

1867年(慶応3年)、徳川昭武の随員としてフランスを訪れた渋沢栄一は昭武とともにコーヒーをたしなんでいた。

昭武は、水戸藩主徳川斉昭の十八男として生まれ、1867年1月、御三卿の一つ清水徳川家を相続。その翌月に、次期将軍の有力候補という触れ込みで、将軍の名代として幕府が初めて公式参加する万国博覧会の開催地・パリへと旅立ったのだった。当時15歳。

幕府使節団の一員として、渡欧の体験をまとめた「航西日記」(渋沢栄一・杉浦譲共著)には「食後カッフへエーという豆を煎じたる湯を出す砂糖牛乳を和して之を飲む頗る胸中を爽やかにす」との記述がある。

「航西日記」に収められている朝食の記事(傍線部)。嗜好品としてのコーヒーに関する日本初の記録とみられる 出典:澁澤榮一滞佛日記〈東京大學出版會〉
「航西日記」に収められている朝食の記事(傍線部)。嗜好品としてのコーヒーに関する日本初の記録とみられる 出典:澁澤榮一滞佛日記〈東京大學出版會〉

これは朝食に関する記述であり、松戸市戸定歴史館の齊藤洋一館長(現・名誉館長)は「恐らくコーヒーを嗜好品として明確に文字に記録して残った最初の例」と指摘する。

渡欧目的は、万博という国際政治の桧舞台に参加することで幕府の威信を示すことと、欧州各国歴訪、長期留学にあった。

さらには「昭武渡欧に関する資料には直接書かれていないが、日本が有力な投資先であることを印象づけるために渡欧した。資金調達によって軍事システムをフランス式に変え軍事的優位に立つ薩長を圧倒しようとしたとみている」。

1867年7月1日、パリ万博の表彰式が開かれ、昭武は各国の王族や皇族とともに列席。その後、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスの5か国を歴訪し11月末から留学に専念し始めた頃、幕府が終焉を迎える。

翌年5月に新政府からの帰国命令が届き、昭武は帰国を決意。帰国前のフランス国内旅行時に昭武はコーヒーについて触れている。

「徳川昭武仏文帰航日記」(松戸市戸定歴史館所蔵)の仏語原文。紅海を航行している際に「有名なモカの街が見えた。この辺りは優れたコーヒーを産するとのこと」(11月1日)と記している(下線部)
「徳川昭武仏文帰航日記」(松戸市戸定歴史館所蔵)の仏語原文。紅海を航行している際に「有名なモカの街が見えた。この辺りは優れたコーヒーを産するとのこと」(11月1日)と記している(下線部)

昭武が日本語とフランス語で自ら筆をとった日記などを翻刻・翻訳・編纂した「徳川昭武幕末滞欧日記」(松戸市戸定歴史館)には、西北部の港湾都市シェルブールで「海水浴客用施設に足をとめ、そこで海原を眺めながらコーヒーを喫む」(8月2日)、「海岸で気持ちよくコーヒーを味わう」(8月3日)と記されている。

また同月7日には、西部のブルターニュ地方で「夕食後、渋沢氏の部屋でコーヒーを飲んでいると、シャン・ド・バタイユ(戦場)広場で演奏されていた音楽が聞えた」と書かれている。

*本稿は2018年5月9日付〈コーヒー「西郷どん」の時代から愛飲 徳川慶喜・徳川昭武が織り成す物語〉を再編集